僕の10年連続司法試験不合格体験記|ポットンけんいち第1章

ポットンけんいち

はじめまして。
僕は、昭和48年生まれ沖縄県名護市出身の47歳の男性です。

中学は、沖縄県の北部にある名護市立東江中学校、高校は私立興南高校、大学は、帝京大学出身です。
大学時代に法学部に入ったのをきっかけに20歳の時に法律の勉強を志し、弁護士を目指して本格的に司法試験に取り組みました。

しかし、この司法試験というのが、中毒症状ある試験で、とても長く暗い受験トンネルの闇でした。
この道のりは、人並み以上に努力するけども試験の結果は「不合格」の連続でした。

勉強に費やした20〜30代。とにかくきつかった。

振り返ると、平成9年から予備校に通い、11年度から受験し始め12、13、14、15、16、17、18、19、20年と10年間も司法試験に不合格でした。その後司法書士試験に転向し、平成21年度に司法書士試験に合格するのですが、受験開始した頃に生まれた姪っ子は、司法書士になる頃には、高校生になっていました。

1年に1度の試験で毎年その連続なので、本当にきつい思い出です。
20代から30代は、勉強しかしていません。
ずっと受験予備校に通い詰めましたが、結局弁護士資格は手にすることはできずに現在に至ります。

現在、司法書士として沖縄でやっていること

ちなみに、今は沖縄県にて以下の事業の代表をしております。

僕が、司法試験受験不合格経験をを通じて何をどう失敗していたのか落ちる(ポットン)経験を連載します。読んでいただく方の参考に、笑いに、若しくは何らかの励みとなれば幸いです。

どうして弁護士を目指そうと思ったのか・きっかけ

僕は、何を考えて、弁護士を目指したのか?について話したいと思います。
両親は、薬剤師をしており、「日高薬局」という薬屋をしてました。両親が薬剤師なので中学校の先輩からは「ヤーさん(やくざ?)」として呼ばれたりもしました。
憲一(ケンイチ)という名前なので、友達からは「ケン坊」のニックネームで呼ばれています。

今回のタイトルとなった「ポットンけんいち」は、父親が、幼少の頃から「お前勉強しないと試験に落ちるぞ、そしたらお前の名前は『ポットンけんいち!』と呼ばれるぞ」と言っていたのが、大人になって実現したところが由来です。これが言霊というものでしょうか。

話しを戻して、大学で東京の帝京大学に進学し、ボクシング部に所属していた3年生の頃、さて卒業したら何をしようかと漠然と考えていました。弁護士については、叔父が弁護士であったことがきっかけになりましたが、身近なところで有名な会社の2社の倒産劇に遭遇しました。これまで、富裕層、金持ちと称されてきた町の名士の倒産劇です。
その時に飛び交った用語が「差押」「競売」「債務総額」「利息」「損害金」「破産」など、全く意味がわからずに混乱しました。
当時の弁護士さんが、毅然と対応する姿に憧れを持ち(叔父)俺も弁護士になろうと決意したのがきっかけです。
もともと、漠然と起業して「社長」になりたいとも考ていて、法律を勉強することはとても有意義だと考えていました。

ボクサーからの転身

高校は、興南高校へ進学しました。

興南高校紹介
沖縄県内で初の私立高校及び私立中高一貫校である。高校においては、伝統的にスポーツを中心とした課外活動が活発である。野球部は、甲子園の常連校としてプロ野球選手も数多く輩出しており、2010年には史上6校目で21世紀初となる春夏連覇を果たした[また、沖縄県勢にとって夏の甲子園初優勝となった。春4回、夏12回、計16回出場。近年ではハンドボール部の男子がインターハイで6度の全国制覇を成し遂げている。バスケットボール部の男子も1986年春の選抜(現・ウィンターカップ)で沖縄県勢全国大会歴代最高となる準優勝を果たしたほか、2007年のインターハイでもベスト8まで進んだ。ボクシング部は金城真吉監督が経営するウィンナーボクシング教室を練習場とし、インターハイ、ジュニアオリンピック、国体の優勝者を数多く生み、プロボクサーも輩出した。

興南高校は、全国有数のスポーツ進学校で、沖縄は、ボクシング王国と称され、有名なボクサーとしては、具志堅用高先輩などがいます。
監督は、名伯楽の金城真吉監督。45年間のボクシング指導歴があり、全国チャンピオン40名を数える選手を育成した名伯楽です。
僕ら教え子は、金城監督のことを尊敬と感謝から「オヤジ」と呼び、オヤジの生涯を映像化しドキュメンタリー映画「10カウントは聞かない」を制作しました(この話しは「ポットンけんいち」とは関係ないので割愛します)

大学4年生の頃(今から25年程前)、先輩の具志堅用高さんがボクシングジムをオープンするというのでそこからプロボクサーになるのも大きな夢でした。一瞬、プロボクサーを健闘をしましたが、これまでのボクサーとしの自分の戦績を考え直しました。高校・大学とアマチュアながら試合をしてきましたが、これと行った実績もなく、一応沖縄県代表として国体へ3度出場したり、大学時代も関東大学リーグ戦などに出場しましたがその程度です。
九州大会で全国チャンピオンに勝利したこともありましたが、結局、勝ったり負けたりし、大学4年生の最後試合は、鹿児島県で開催された国体予選兼アトランタオリンピック九州大会の予選1回戦で負けています。

命がけで戦うボクシングで世界チャンピオンに挑戦するくらいの心意気があるなら、必死に勉強して国家最難関の試験司法試験に挑戦することが賢明と判断しました。

今でこそ、いろんなジャンルのボクサーが多く存在し、村田諒太選手(東洋大学出身金城真吉総監督)や怪物とされる井上尚弥選手などがいますが、当時の世界チャンピオンは、具志堅先輩はじめ、渡嘉敷勝男さん、ガッツ石松さん、輪島功一さんが活躍しておられ、ボクサーとしての強さは尊敬することは然り、様々な意味で自分との遠い距離感を感じていたことも「ボクサー」より「弁護士」を選択する大きな理由となりました。
そこで、「世界チャンピオンを目指すつもりでやればなんでもできる」と志を固め、法律受験のリングに上がり、六法全書というサンドバックを打つことにしました(笑)

受験の始まり。六法よりも、国語辞典からのスタート

とはいえ、高校も大学もあまり勉強していないし、法律試験の勉強をどうしたらいいのか?全く何もわかりませんでした。

そこで、東京新宿の高田馬場にある法律系受験予備校を渡り歩き、ガイダンスを聞いていくことからはじめました。気合い十分だったのですが、気合いだけではどうにもならず、どうしたらいいのか真っ白になったことを覚えています。

とりあえず、文房具は必要だろうというところで、本屋と併設している文房具屋さんで一式を揃えました。
法律といえば六法ですが、基本的な日本語も不安でしたので、国語辞典から購入しました。
文房具で迷ったのが、コンパスと分度器ですが、もしかすると必要かもということで購入しました。
つまり、これはしょうもない冗談でなく、当時は、正直このレベルだったのです。

ポットンけんいち第2章に続く…